石川雲蝶

「石川雲蝶源ノ正照」(いしかわうんちょう みなもとのまさてる)は通称を「安兵衛」(やすべえ)

幕末から明治にかけての名匠「石川雲蝶源ノ正照」は、通称を「安兵衛」といい、生まれは江戸雑司ヶ谷に於いて文化11年(1814)亡くなったのが明治16年(1883)5月13日で数え年70歳の時です。
法名を 観具院真性日安信士(かんぐいんしんしょうにちあんしんじ) といいます。

三十六歳の時、三条へ
嘉永2年に、現在の三条市、法華宗総本山本成寺の檀家総代であり二ノ町の金物商、内山又蔵(うちやままたぞう)に連れられ三条に来たのが雲蝶36歳の時です。

永林寺との縁
この後、永林寺との縁は、伽藍復興に奔走していた時の住職、二十二世円応弁成(えんのうべんしょう)大和尚が、大工棟梁関与兵衛(せきよへい)に請願され三条に鑿(のみ)を始め金物類一式を購入に出かけ、三条の賭場で雲蝶と出会ったのが、嘉永5年と伝えられます。

永林寺の本堂再建
当時、永林寺の本堂は老朽化し再建することになったが、江戸時代は本家より「うまいものを食べてはいけない 良い家を建ててはいけない」という風習があり、なかなか再建の許可がおりず、松平公上屋敷に「忠直・光長公の位牌堂を建立する」といって本堂着工にあたりました。上屋敷に直訴の折、夜店を出していたのが内山又蔵であり、その折にずんぐりむっくりした男で鑿を取っ替えひっかえ見ていたのが雲蝶その人でした。
「良い酒と鑿(のみ)は終生与える」という条件で越後入りしていたのです。

弁成和尚と大賭博で
弁成和尚と雲蝶は共に気が短く、爪をかみ、酒を愛し百年の知己の如く語り合ったとされ、2人で大賭博をしたとの逸話があり、その内容は、本成寺の完成後、雲蝶が勝ったら金銭の支払を成し、弁成和尚が勝ったら永林寺本堂一杯の力作を手間暇を惜しまず製作するというものだったそうです。

十三年間の滞在
結果は弁成和尚の勝ちで、雲蝶が約束通り永林寺へ来たのが、本成寺の納骨堂(明治28年に大火で焼失)が完成した後の安政2年であり、慶応3年までの13年間滞在し欄間を始めとする彫工・絵画を数多く残し、その後明治14年に再度来山し、晩年期最後の作品を完成させたのが、燈籠台と香炉台です。

雲蝶の作品の特長
雲蝶の作品の大きな特長は、まず総じて彫りが深いことにあります。
また、彫り師としてだけではなく絵師としての才も兼ね備えていたことで、独特の構図は、まさに下絵、彫刻、彩色を1人で仕上げることのできた雲蝶ならではと言えるもので、他に類を見ない独創的な作風にあります。
このことは、作品内容の豊富さにも一驚し、立体感溢れる欄間から、浅彫り欄間、法具から絵画の多種多様に至り、単作物は別として連作物には同じ構図がほとんど見あたりません。彫られた人物も多彩で躍動感に溢れ、表情が1人1人異なるのも雲蝶の独特なものだと言われます。

永林寺本堂にわたる作品の数々
永林寺は魚沼地方に多くの作品を残した雲蝶の本拠地で、仏典に材をとった歴史物語のほか、雲蝶には珍しい花鳥や山水の水墨画風の彫刻が広い本堂全体にわたって施されています。

彫りの鬼
好きな酒ばかり飲み、賭博好きという破天荒な気性の反面、ひとたび気が乗ったとなると、彫りの鬼と化して作品と向き合ったとも伝えられ、その生き様は決して優等生とは言えないものの、人間味溢れる憎めない人柄であったのでしょう。
江戸に生まれ、越後の地でその才能のすべてを出し尽くした雲蝶は、三条市本成寺で今も自らが残した作品を見守るかのようにしてひっそりと眠っています。

作品紹介
当山が所蔵する多くの石川雲蝶作品から、毎回作品を限定して詳しく紹介したいと思います。

深彫り欄間「小夜之中山蛇身鳥物語」(さよのなかやまじゃしんちょうものがたり)

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この作品は欄間2枚と絵画(板絵)1枚で構成された3部作になっています。
武将であった父、熊高平奈左ヱ門は、狩りを趣味として毎日毎日鳥や獣を撃っていました。殺生を好まぬ母は、その夫の様を嘆き悲しみ、息子の初太郎と娘の月小夜姫が、父にすがりながら狩りを止めようとします(上の場面)。それにもかかわらず振り切って狩りに出かけ、山の麓に一頭の熊を発見し、弓で射止めて皮を剥ぎ取ってみると、何とそれは息子の初太郎が、父の殺生を誡めるために熊の皮を着ていたのでした。熊高平奈左ヱ門は息子を殺したことにより、一切の殺生を止め仏門に入り、一生涯初太郎の供養と世の幸せを願ったといいます。しかしながら息子を殺された母は、その祟りで頭は大蛇で身体が大鳥の怪物となり、世間では「蛇身鳥」と呼ばれ毎日三人以上の子どもを食らうようになります。

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この母の祟りを悲しむ娘は、一心にお参りをし祈願したところ三日三晩同じ夢を見ます。夢知らせによると深山幽谷に一人の仙人が修業しており、そこで琴を習えば、時の弓の名人が蛇身鳥を成仏させてくれるというものでした。月小夜姫は夢知らせの通り深山幽谷へ旅立ち仙人に会い、今までの因果を語り、琴を教えて欲しいと懇願するのですが仙人は未だ自分自身が修業の身であり、修業の妨げになると願いをことわります。しかし、仙人の立腹にもめげず、娘は父母兄弟の因縁因果を詳しく報告し、琴の修業をさせて欲しいと一心に哀願し続け、ついに仙人もこれを許し三年三月の修業入ります。

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この物語は、当山二十二世弁成和尚が雲蝶に語り聞かせ、雲蝶はそれを作品にしたのです。作品は欄間が本堂の「位牌の間」の廊下に配置、絵画は創建時は本堂に入る正面の向拝(ごはい)の天井にありましたが、現在は金堂の天井に安置されています。

3つの作品の中の「出発の図」には、雲蝶の性格が現れるユニークな彩色があります。息子初太郎の左にお社があるのですが、そのお社に貼られた千社札が、なんと!「匠雲蝶」と「三條彫工」「石川正照」と自らの名を書いています。洒落っ気たっぷりだったと言われる雲蝶らしい仕上げです。

浅彫り欄間「活け花/茶道具」
雲蝶は奥行きと深みのある欄間ばかりではなく、薄い板に端正な絵を描くような「浅彫り欄間」を、当山には多数残しています。

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上の作品は、その中のひとつで1枚の板の両面に彫り込まれたものです。
深彫りとは違い板面に題材の輪郭を彫り込んで立体感を出す手法で作られており[この技法を肉合い(ししあい)彫りといいます]、派手さこそありませんが、落ち着きのある浅彫りはデザイン力に秀でていた雲蝶独特の作品です。
この「茶道具」の面に、ようく見ると制作当時をしのばせるおもしろいものが残っています。炭籠のよこに1個の炭の「下書き」が残っています。雲蝶は最初、炭籠からこぼれた炭を表現しようとしていたのかもしれません。作品に向き合っていた頃の雲蝶の試行錯誤が感じ取れます。少し分かりずらいかもしれませんが、できれば是非当山に来てじっくりと確かめて見てください。

石川雲蝶が十三年余りの歳月にわたって寺に滞在し、彫り上げられた彫工・絵画は百余点にものぼります。

「永林寺 図録」にも多数収録。
「永林寺山号額・波に菊・獅子頭・十六羅漢像・松平忠直公・光長公の位牌・金堂(位牌堂)・涅槃図・天女・鳳凰に桐・孔雀・鶏・錦鶏・松に鶴・梅に山雀と雀・松に月・葡萄・雨中の鷺・活け花・茶道具・波に金鯉・鷺・波に黒鯉・竜・出発の図・頼政蛇身鳥射止め場・太陽と鷹・月と虎・天の邪鬼香炉台・牡丹と唐獅子燈篭台・寝牛・蛙」等多数収録。
解説もあり。お求めはこちらかお電話にて承ります。